人間生存本能とは不思議で、覚えていると生きるのに支障をきたす記憶は、どうやら勝手に封印するようだ。ふっと振り返った時、過去4年分の記憶しかなかった時はゾッとした。
10代の頃つき合っていた彼は、足が不自由になり始めた最初のころは理解(?)があったものの、次第に「お前の気持ち悪いその足、感染する病気だろ?なら撒き散らす前にサッサと足を切るか、死ねよ!」と言って去っていった。
成人式に参加しなかったボクを心配してなのか、自宅に訪ねてきた同中の友人は、ボクの足をみるなり「お前!何その足の色。気持ち悪っ!」と言って帰っていった。以来会ってもボクを無視するようになった。
学歴や体裁重視一家である母方の親戚や祖母は、大学行かずに就職をしたボクを飽きもせず罵っていた。ボクの足が原因不明で麻痺したと知った途端、「学歴が無いだけでも恥ずかしいのに、その上障害まであるなんて恥さらしの欠陥品だ」と厄介者扱いをし、年始の挨拶や葬儀などで顔を合わせる度に居ない者として扱っていた。
事なかれ主義の母は、娘がどれだけ罵倒されようが、何も言い返さなかった。
ボクはなぜ、ここまで他人に否定されなければならないのだろう。彼らはなぜ、ヒトを傷つけたという自覚が欠落しているのだろうか。果たして「欠陥」とは、「死ね」とは、人に向けるコトバとして適切だろうか。
言った側は傷つけた事を一生気づかないどころか、言った事すら忘れているだろう。彼等にとっては冗談な軽い気持ちで言った言葉だったとしても、言われた側にすれば悪意に満ちた言葉の暴力でしかない。
彼らの暴力的な言霊がボクにとっては、「心因性失声症」・「対人恐怖症」・「接触障害」「心因性難聴」「自殺未遂」を引き起こすほどほど残酷で、記憶を捨てなければ生きられないほど、深い深い傷跡を残したのは確かだ。
悪意ある言葉を投げつけた彼等はその事を知る由もなく、この陸のどこかでのうのうと生きているのだろうと思うと、やり場のない消化されることのない怒りが燻る。